昭和41年9月23日 朝の御理解      №41-106



 昨日、ある方が、こういうようなお伺いをされます。皆さん、この信心を進めて行く上に、色々分からないところがございますね。色々な、やはり、疑問が出て参りましたり致しますですね。そこんところを分からせて頂かなければなりませんが、話を聞くばかりが脳ではない、わが心からも練り出せと仰るのでございますから。練り出させてもらうということが大事ですね。
 昨日は、福岡の秋永先生も、そんなことを、参って来て言うておられました。ここまでは分かってる、と。先生、これから先は、どういうような在り方にならせて頂くなら良いか、と。そうですな、そこから先が大事なところなんだ。先生、それは、なるほど私にはわかっておる。けども、それはあなたに教えたよりも、あなたがそこんとこを練り出して行かれるということの方が有り難い、本当に自分のものになって行くんですよ、と言うて申しましたことですけれども。
 それとても、やはり信心のヒントだけぐらいは与えて頂いて、また、新たな心でそのことを思い、そのことを練らせて頂くことが出来る。これは、(もうとか?妹が?)昨日、参ってました、御霊様をここにあずけております。ほれで、昨日、参ってまいりまして、お伺いがあったんです。
 明日の御霊様のお祭りを、だいたいこの、非常に霊徳に(   )方なんですけど。御霊様のお祭りとか、ここでは、御霊のお祭りをして差し上げたんですけども、そうしたり致します時なんかは、お夢の中に御霊様の働きとか、御霊様の喜びとかというのを頂かれるんですよね。
 ところが、今度の場合、もう、全然そういうようなことのないわけです。かと言うて、んなら、たくさんのお道の信奉者の全部の方がお夢を頂いたり、その御霊様の、たとえばご依頼をお頼みがあったりですね。御霊様を拝ませてもろうたりというようなことが、皆が皆、あられる訳ではないのです。ですから、やはり、その、神様でも同じことでございますが、目にも見えなければ、聞こえもしない、声もなしと仰るのですから、疑えば限りがない。ね。
 だから、神に会いたいと思えば、庭の口へ出て見よ、空が神、下が神。もう、こんなに間違いのないことはないのだ。けれども、そこに、その、それを神様としての実感というものがです、または、御霊様としての、その、生き生きとした交流というものがですたい、なされないならば、また、値打ちがないわけなんですね。そこで、その、どういうような心持で、先生、ならせて頂いたら、その、御霊様と交流することが出来るだろうか、という意味の、まあ、おかげを、あの、お伺いがあったんです。
 いわゆる、信心の一つのアドバイスとでも申しますか。そういうような、その、相談が持ちかけられれるということのことが、有り難いですね。教祖の神様の御理解の中にも、今までは、その、銘々が信心させて頂いてもですね、なら、願いを立てると言うても、願い捨てであったろうがと仰る。お願いをして、帰るだけ。別に、神が返事してくれるということはないけれども、ここへ参って来ると、神が物を言うて下さる、神様がご返事を下さることが、有り難いではないか、と。
 今までは、相談相手がなかった、信心を進めて行こうにしても。けども、ここでは、相談相手があるということが、有り難いことではないか、という意味のことを仰っておられますですね。ここで皆さんが、色々、たとえばお知らせを頂かれても、頂いただけで、どういう意味やら分からないと、ここで、さあ、よく練って見なさいという時もあるけれども。ヒントを与えるだけの時もありゃ、または、それを噛んで含めるように、それは、ああだ、こうだ、とこう、それに対して(読んで?言うて?)頂くことがある。
 椛目ではですね、それが的確に頂けれるということが、私は有り難いと思うですね。まず皆さん、そこんところを有り難いと思わにゃいけんと思うですね。ですから、本当に信心を進めて行きたい、信心を自分のものにして行きたいという願いがあれば、自ずとと疑問も出て来るし、お伺いするところも出来てくるわけでしょうけれども。その、向上しようとする願いの心がなかったら、疑問に思うところも、分からないというところですら、分からんのです。ね。
 お互いの信心を、やっぱ反省してみる必要があると思うんです。たとえば、今日、御霊様のお祭りが一時からあるわけでございますな。せっかく、お互いの、いわゆる先祖の御霊様もここにお招きを頂いて、そして、色んなお祭りをして頂くという風に申しましてもです、先祖の御霊様が喜んで下さっただろうと、こう、心に感じられるくらいな御霊様のお祭りに会わせて頂くなら、そのくらいなお祭りなら、会わして頂かなければ、何か足りないことはないだろうか、と。
 昨日、福岡のその方が申しますように、どういうような心持にならせて頂いたら、有り難い御霊様のお祭りが出来るだろうか、と。そすとね、私、そのことをお取次ぎさせてもらいましたが、サイダーの栓を抜いて、ジャーッと出るあの泡が上がるでしょう。ね。そこんとこをを頂いたんです。ですから、たとえ、その、御霊様の声を聞かなくても、姿は見なくても、または、御霊様のそのお知らせを頂かなくても。これは、御霊様だけではありません、神様においても同じことですけれども、そうした、蓋を開けたら、ジューッとこう、生きた働きがあるようなです、生きとしたその心が、一番必要だということが分かりますですね。
 栓を開けたところが、ジューッとも言わじゃった。そげんとは、もう、気の抜けとるとですよね。だから、その反対なことを言うたら、神様に向かうでも、御霊様の方に打ち向かわせて頂くでもです、私どもの心の中に生き生きとした心、気が抜けたものであったんでは、(かいいん?)もしなければ、それでは、つまらんということが分かります。
 そこに、その、そういう、なら、生き生きとした心を頂くためには、どういうような在り方にならせて頂いたら良いか、ということになるわけなんです。そうですね。ところが、そこまですら分かっていない。はあ、御霊様のお祭りというのに、もう、自分の心は、どうも今日は、その、枯れたような感じ、喜びがない、感激もない、感動するものもない。どうしたことだろう。
 これでは、神様にも通わない、御霊様にも通わないと思うたら、焦るが出るくらいな気持ちが必要なん。ね。生きた心がなからなければと、たとえば、そこまで分からせて頂いたら、そんなら、どういうような在り方にならせて頂いたら、私の心が、言うならば、躍動するような。ね。栓を開けたらジューッと、御霊様のお祭りがはじまったら、途端に私の心の中に、何かが湧いて来るような。
 そういうものを頂くためには、なら、どういうような在り方にならせて頂いたら良いかということを、皆さん、銘々、工夫しなければいけないと思うですよね。そこに、私はあるものは、修行だと思うですね、真心だと思うですね。いつも、あの、どこどこの饅頭屋さんに、お饅頭一段、御霊様のお祭りにお供えするけんで、今年もあそこの饅頭屋さんに頼んどいてくれんの、と言うたぐらいなことで、その饅頭をお供えをしたようなことで、私は生き生きとしたものは生まれて来ないと思う。ね。
 そういう、たとえば、それは、まあ、言うなら枝葉。だから、その根本にです、生き生きとしたものがあれば、また別なん。ね。けれども、生き生きしたものを、何かによって頂きたいと願うならばです、それじゃいかん。ね。やはり、んなら、家の亡くなられたおじいさんは、または、おばあさんは甘い物がお好きだったから、辛い物がお好きだったからと、そこに、思いを込めさせて頂く、と。
 酒いっちょ使わせて頂くでも、家のおじいちゃんは、どこどこの、何々という酒が本当にお好きだったからと言うて、捜し求めてでも、それを、例えば求め買わせて頂くというような気持ちの、そういうものがです、それという訳じゃないですよ。そういう、私は、心の上にも、心を配らせてもらう。ね。
 家のおばあさんは甘い物がお好きだったから。ね。この前はおはぎじゃったけんで、今度は、饅頭を作らせて頂こうかというようにです、あれやこれや、あれでもなかろう、これでもなかろうかと心を練らせて頂くとか。お祭りを頂く前にです、笹屋かでも修行をさせて頂くとか。ね。何かそこに心を、その御霊様に打ち向けさせてもらう。そして、そこに、笹屋かな修行でもなされる時にです、私は、この、ね、いよいよお祭り、途端にジューッとその、サイダーがあの(大缶?)をとりますと上にふき上がるようなです、この喜びが湧いて出るようなものが、私が頂けると、こう思うんですね。
 ですから、皆さん、今日は、その、これは神様にでも同じことですけれども、御霊様にですね、それはお知らせを頂かなくても、そこに特別なことがなくても、神様に通うと言うか、ね、御霊様に交流するとか、御霊様の喜びを頂く、神様のお喜びを頂かせてもらうというようなおかげを頂くためには、いかに、私どもの心が、生き生きとしたものでなからなければいけないか。
 また、それとは反対に、気が抜けたようなものでは、つまらないということを、今日は、皆さん分かったわけですから。そんなら、そういう生き生きとした心を頂かせて頂くための、銘々、たとえば、あの何時間かでも良いから、そこんところに心を打ち向けての、私、何かがなされなければならない。そして、私はお広前にお引き寄せ頂かれる。お祭り、そして、こう、湧いてくるようなもの。
 そこに、神様が喜んでくださるだけではなく、御霊様が喜んで下さるだけではなく、ね、私自身も、はあ、おかげを頂いて良かったということになって来るのじゃないでしょうか。ね。私は、信心とは、そういうようなもんだと思う。ね。どうぞ、今日のお祭りが、皆さんの遺族の方達の、今日は、今ここで、玉串を取り交わさせて頂く。ね。特別の、いわばお祭りを申し上げるところの、いわば祭典が、一時から行われます。ただ、それに参列したというだけではなくて。ね。
 それに、玉串を上げたというだけではなくてです、心から玉串が上げられる。心から、何とはなしに御霊様と通うたといったような、一つの(停滞?)とでも申しましょうか。何か、そこにガクッとこう、手応えでもあるくらいなです、おかげを頂かせて頂きたいもんだと思うております。どうぞ。